少し長いですが佐々木副社長の逸話を新聞記事から抜粋してご紹介します。
元シャープ副社長で、同社を世界的な電機メーカーに育てた人物として知られる佐々木正氏が死去した。102歳だった。ロケット・ササキの異名で知られる敏腕もさることながら、「共創の哲学」を掲げて公私にわたり若手経営者を育てたことは今も語り草だ。
「佐々木先生との出会いがなければ今の私とソフトバンクはありません。私と弊社だけの恩人ではなく、日本の先端電子技術の礎を築かれた日本にとっての大恩人です」
ソフトバンクグルー少しプの孫正義会長兼社長は佐々木氏の訃報に接した2日深夜、こんなコメントを送ってきた。孫氏が大恩人と呼ぶのは決して大げさではない。事実、佐々木氏との出会いがなければ孫氏の成功もなかったかもしれない。話は40年前にさかのぼる。
「孫正義は私が保証します」
1978年8月。21歳の孫氏は、むせかえるような暑さを気にも留めずに電話ボックスの中で受話器を握りしめていた。留学中の米カリフォルニア大学バークレー校から一時帰国していた時のことだ。
在日韓国人3世として住所もない無番地で生まれ育った孫氏が「事業家になってここからはい上がりたい」という思いに駆られ、起業家としての第一歩を踏み出したのがこの時だった。大学教授を仲間につけて開発した音声機能付き電子翻訳機。その売り先を探して日本に帰ったが、まともに話を聞いてくれる大人はいなかった。最後の望みを託して電話をかけたのがシャープだった。
大切そうに翻訳機を風呂敷から取り出す孫氏の目をじっと見つめた佐々木氏。「もう目がらんらんと輝いていてね。この子は何か違う、力になりたいと思いました」。それから40年近くがたち、記者の取材に応じた佐々木氏は昨日のことのように覚えていると当時を懐かしんだ。
突然現れた学生に手をさしのべた佐々木氏。研究費として最大1億6000万円出すと言う。この資金を元手に、大学を卒業して帰国した孫氏が日本ソフトバンク(当時)を設立した。
それからも佐々木氏はこの若き起業家を成功へと導く。創業直後に孫氏が資金繰りに窮していることを知った佐々木氏は銀行幹部に電話を入れた。「孫正義という男は私が保証します」。すでに日本の産業界では広く知られる存在だった佐々木氏の懇願を耳にした銀行トップが、その幹部に孫氏への融資を命じた。もし佐々木氏の後押しがなければ、孫氏の野望はこの時にあっけなくついえていたかもしれない。
「実は私も妻に怒られたんですよ」と回想する佐々木氏。孫氏への融資を実現するためなら「自分の退職金と自宅を担保にしてもいい」とまで、銀行に切り出したのだと言う。
それにしてもなぜそこまで――。そう問うた記者に返した言葉は、ひと言だけだった。
「それはねぇ、かわいいからだよ」
この話を孫氏に直接伝えたところ、孫氏は感極まったような表情で語り始めた。
「佐々木先生は僕にとっては仏様のような恩人だ。だって僕はなんの見返りも提供していないんだよ。そんな僕の未来を信じて応援してくださった。その純粋さに、頭が下がるとしか言えないよ」
1915年(大正4年)に島根県浜田市で生まれた佐々木氏は幼くして台湾に渡る。京都帝国大学を出て真空管工場で働き始めるが、ほどなく軍の研究にかり出された。レーダーの技術を求めてシベリア鉄道でドイツに渡るが戦況が悪化。レーダーの設計図のコピーを手に、ドイツ軍の小型潜水艦「Uボート」で命からがら帰国した。この時、設計図の原本を持ち他の潜水艦で日本を目指した少佐はシンガポール沖で撃沈されて帰らぬ人となった。 拾った命とばかりに研究に没頭した佐々木氏はトランジスタの将来性をいち早く見抜いた。その佐々木氏の炯(けい)眼を認め、三顧の礼で迎えたのが早川電機工業(現シャープ)創業者の早川徳次氏と、同社中興の祖と呼ばれる元社長の佐伯旭氏だった。
シャープの技術陣を率いた佐々木氏はカシオ計算機との電卓戦争に打って出る。今ではスマホの一機能でしかない電卓だが、当時は電機産業のけん引役だった。手のひらに載るサイズを目指す開発競争は、半導体の猛烈な進化を呼び、それがテレビなど他の家電製品の技術革新を生むサイクルを築いた。まさに「電子立国ニッポン」誕生の起爆剤となったのだ。
この頃の佐々木氏に感銘を受けた米ロックウェル社の幹部が、同氏に一枚の絵を贈った。
シャープと書かれたロケットに笑顔でまたがるスーツ姿の佐々木氏。ロケット・ササキの愛称には、めまぐるしく変わるテクノロジーの先端へと常に挑戦する佐々木氏への畏敬の念が込められていた。
ジョブス氏の目は「キラキラしていた」
佐々木氏を頼った大物起業家は孫氏だけではない。その日のことも、佐々木氏はやはり昨日のことのように覚えていた。
「妙な外国人がドクターと会いたいと言っています」。シャープの東京事務所にいた佐々木氏は、秘書からこんな連絡を受けた。佐々木氏に近しい人物は彼をドクターと呼んでいた。
訪れたのは若き日のスティーブ・ジョブズ氏だった。身なりはひどいものだった。ボサボサの長髪でTシャツにジーンズ。足元はサンダルだった。しかもソファに座るなりあぐらをかく。この当時、ジョブズ氏は自ら創業したアップルを追放されていた。
「(次の事業の)アイデアを求めてあなたに会いに来た」と言うジョブズ氏。佐々木氏は信条である共創の哲学を、この米国人青年実業家にも説いた。「身なりは汚いけど目の力がすごかったんだよ。彼の目も孫君と一緒。もう、キラキラしていたなぁ」。ジョブズ氏が佐々木氏の言葉をヒントに生み出した代表作がiPhoneだ。ネットと電話を「共創」させてコンピューターを手のひらに載せたiPhoneは文字通り世界を変えていった。
佐々木氏の薫陶を受けた2人の起業家の人生は後に交差する。米オラクル共同創業者のラリー・エリソン氏が、米シリコンバレーにある自宅の庭園で孫氏とジョブズ氏を引き合わせた。満開の桜の下で語り合ったという2人はすぐに意気投合する。
孫氏が2兆円で英ボーダフォン日本法人を買収し携帯電話事業に参入した際には「最強のモバイルマシンを作れるのはあのクレージーな男しかいない」と考えてジョブズ氏の自宅を訪れる。言うまでもなく「クレージー」は孫氏にとって最大級の賛辞だ。
その時、「マサ、これを見たらお前、パンツに漏らすぞ」と言ったのが初代iPhoneだった。孫氏はジョブズ氏が作ったiPhoneを独占調達して王者NTTドコモに真っ向勝負を挑んだ。
佐々木氏は老境に達しても最新の技術動向に関心を持ち続けていた。
- 老境に達した佐々木氏は兵庫県・塚口の施設で静かな余生を送っていた。記者が会ったのは1年余り前のこと。佐々木氏はすでに101歳になっていたが、新しいテクノロジーの誕生に胸を躍らせる感性はロケット・ササキと呼ばれた往年の頃となんら変わっていなかった。記者に新型半導体開発の記事を見せ、喜々として「これ、面白いだろ」と語る。その記事を掲載する雑誌の表紙を飾っていたのが、孫氏の写真だった。
「孫君はまだまだ挑戦していくんだ、戦っていくんだ。あの頃と何も変わっていないな」
そう言いながらまな弟子の写真に目を落とす佐々木氏の表情は、とても誇らしげだった。
〔 日経電子版(杉本貴司)から抜粋 〕