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某楼に飲す 伊藤 博文
豪気堂々 大空に横たわる
日東 誰か帝威をして盛ならしむ
高楼傾け盡くす 三杯の酒
天下の英雄 眼中に在り
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【詩 形】 七言絶句
【押 韻】 上平声東韻(空・隆・中)
【語 釈】
豪 氣 盛んな意気。 大胆な気質。
堂 堂 いかめしく立派なさま。
日 東 日本の別称。
誰 タレと清音で読む。
ここでは疑問の意(実は自問自答に近く、自らを指す)
使 シム(~シテ~セシム)と読み、~に…させる意
帝 威 みかど(天皇)の威厳・威光。
高 楼 たかどの。楼は、単独でたかどの(本来2階建て)の意。
傾 盡 かたむけつくす。「傾」はつくす、なくなるの意。「盡」はおわる意。
三杯酒 何杯もの多くの酒。三は実数より多くの数を意味する場合が多い。
在眼中 「在」は、存在を意味する返読文字。後に場所を表す語が続く。
ここでは無眼中(眼中無し)に同じく、意にかけぬこと。
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【伊藤 博文】
伊藤博文(いとうひろぶみ)、天保12年9月2日(1841年10月16日)~明治42年(1909年10月26日)は、日本の幕末の長州藩士、明治時代の政治家。初代、第5代、第7代、第10代内閣総理大臣。
周防国熊毛郡束荷村の農家、林十蔵の長男として生まれる。母は、秋山長左衛門の長女、琴子。家が貧しかったため利助(のちの伊藤博文)は12歳ころから奉公に出されたという。
父・十蔵が長州藩の蔵元付中間水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防国佐波郡相畑の足軽伊藤 弥右衛門の養子となり、伊藤直右衛門と改名したため、十蔵、博文の父子も足軽となった。
吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作、井上聞多らと倒幕運動に加わった。
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維新後、伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、また英語に堪能な事を買われて参与、外国事務局判事、大蔵兼民部少輔、初代兵庫県知事(当時の県知事は民選ではなく官選であった)、初代工部卿など明治政府の様々な要職を歴任する。
大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信と共に殖産興業政策の一環として、鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年に新橋までの全線が開通した。
内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目されたが、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報 (外国電報) が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三條を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。
英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となった。のちに枢密院議長、貴族院議長などに就任。4度にわたって内閣総理大臣を務めた。
【詩の心】
我が輩の意気はまことに堂々たるものがあり、大空一面にはびこるほどである。
陛下の御稜意をいや高く世界に輝かし奉るのは臣伊藤博文を措いて誰があろうか。
今、この高楼において何杯も酒を傾けると元気はさらに横溢して
古今天下の英雄は皆わが眼中に入ってしまうのである。
この、博文の自信に満ち溢れた漢詩を
ゆったりとした調子で力強く吟じ、その高揚した気持ちを味わいたい。
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