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平泉懐古 大槻 磐渓
三世の豪華 帝京に擬す
朱楼碧殿 雲に接して長し
只今 唯 東山の月のみ有りて
来り照らす 当年の金色堂
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〔詩形〕 七言絶句
〔脚韻〕 長・堂
【語 釈】
平 泉 : 岩手県南部の地名、奥州藤原氏の根拠地。
三 世 : 藤原氏三代、清衡(きよひら)、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)。
擬帝京 : 天使の都ともいえそうである。
朱楼碧殿 : 朱色の楼閣とみどり色をした御殿。中尊寺建立以来、堂塔や僧坊が次々と
建てられ、その数合わせ三百、豪華を極めたという。
只 今 : 現在、李白「蘇台覧古」詩に「只今惟有西江月と、また、
「越中懐古」 詩に「只今惟有り蝦蛄飛」とある。
当 年 : そのむかし。
金色堂 : 平泉駅の西方2キロメートル、平泉中尊寺の金色堂を指す。
1124年(天仁二年)清衡が創建し、阿弥陀如来を本尊として金箔、螺鈿に
飾られ藤原三体の遺体が安置されていた。
平等院鳳凰堂と共に平安時代の浄土教建築の代表例であり、
当代の技術を集めたものとして国宝に指定されている。
現在も、藤原三大の栄華を示すものとして覆い屋の中に保管されており、 中尊寺の一仏塔 光堂ともいう。
芭蕉の句に「五月雨の降り残してや金色堂」
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【作 者】
大槻 磐渓(おおつき ばんけい:1801(享和元年ー明治11年)
【略歴】
陸前(宮城県)の人、名は清崇、字は士広、磐渓は号。
江戸時代後期から幕末にかけて活躍した漢学者。文章家としても名高い。
仙台藩の藩校、養賢堂学頭であった磐渓は、ペリー渡来時には開国説を建議するなど、幕末期の仙台藩論客として奥羽越列藩同盟の結成に走り、戊辰戦争後は戦犯として謹慎幽閉された。
【通 釈】
藤原氏三代の極めた栄華は、まさに京の都にもなぞらえる。
その平泉の紅い楼閣や碧の御殿は、空の雲にも達せんばかりにそびえて連なっていた。
しかし、今ではもうその昔のおもかげもすっかり失せて、ただ東山に上る月だけが、昔の栄華を
しのばせる金色堂をむなしく照らしている。
【参考】
李白の「蘇台覧古」、「越中懐古」詩を背景に、栄華に奢った藤原三代の末路を、
呉王夫差や越王勾践のたどった運命と重ねて感慨を述べた詩である。
平泉はのちに、源義経をかくまったとの理由で、鎌倉の大群によって滅ぼされた。
この時、鎌倉では「倹は存し、奢は滅ぶ」と評されたという。
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