遊岳の詩吟うん蓄


5言絶句  「江 雪」 と 柳 宗元


       江 雪  柳 宗元

 千山 鳥 飛び絶え
   萬徑 人蹤 滅す
 孤舟 蓑笠の翁
   独り釣る 寒江の雪に

〔詩形〕五言絶句
〔脚韻〕 絶・滅・雪

【語釈】
  江雪 : 江辺の雪
  萬径 : 多くの小道(「万」は、前区の「千」と同様、漫然と数の多いこと
       を表す。  第1句と第2句は対句。
  簑笠翁: 蓑と笠をつけた老人
  独釣 : ただ一人で釣りをする。
  寒江 : 寒々とした川。 第3句と第4句も対句

 柳宗元(りゅうそうげん:773 - 819)

 中唐の文学者・政治家。字は子厚(しこう)。 本籍地が河東(山西省)であることから、「柳河東」「河東先生」と呼ばれる。また、その最後の任地にちなみ「柳柳州」と呼ばれることもある。
 王維や孟浩然らとともに自然詩人として名を馳せた。
 散文の分野では、韓愈(かんゆ)と共に宋代に連なる古文復興運動を実践し、唐宋八大家の1人に数えられる。
 
この詩は、彼が永州へ追いやられていた時に作った詩
     
 柳宗元・『晩笑堂竹荘画傳』より

【略歴】

 同時代の著名な文人、白居易・劉禹錫に1年遅れて出生。唐12代皇帝徳宗の時代、若干20歳で科挙の一つである進士に挙げられ、25歳で難関の官吏登用試験である博学宏詞科に合格、集賢殿正字(政府の書籍編纂部員)を拝命し、新進気鋭の官僚として藍田(陝西省の県名)の警察官僚から監察御史(行政監督官)を歴任した。
 当時の唐は、宦官勢力を中心とする保守派に対決姿勢を強める若手官僚グループの台頭が急であった。政界の刷新を標榜する柳宗元は盟友劉禹錫とともに改革運動に参加するが、既得権益の剥奪を恐れる保守派の猛反発に遭い、改革政策はわずか7ヶ月であえなく頓挫。礼部侍郎に就任し、これからという時に柳宗元の政治生命は尽きた。
 政争に敗れた改革派一党は政治犯の汚名を着せられ、柳宗元は死罪こそ免れたものの、長安(西安市)を遠く離れた永州(湖南省)へ、何の権力もない副知事として追いやられた。時に柳宗元33歳であった。
以後、永州に居を構えること10年、815年に朝廷の召還通知を受けた柳宗元は、もしや赦免されるのではと急ぎ永州を発ち、友人劉禹錫とともにいそいそと参内したが、待ち受けていたのは更なる遠方への左遷辞令であった。再び柳州(広西省壮族自治区)刺史(地方長官;知事に当たる)の辞令を受け、ついに中央復帰の夢はかなわぬまま、元和14年、47歳で没した。

 政治家としてはたしかに不遇であったが、そのほとんどが左遷以後にものされることとなった彼の作品を見ると、政治上の挫折がかえって文学者としての大成を促したのではないか考えられている。

【詩風】

 詩は陶淵明(とうえんめい:365-427)の遺風を承け、簡潔な表現の中に枯れた味わいを醸し出す自然詩を得意とした。唐代の同じ傾向持つ詩人、王維・孟浩然・韋応物らとともに「王孟韋柳」と並称された。
 ただ、その文学には政治上の不満ないし悲哀が色濃くにじみ、都を遠く離れた僻地の自然美をうたいながらも、どこか山水への感動に徹しきれない独自の傾向を持つ。
 
 清水茂氏も『唐宋八家文上 清水 茂』(新訂 中国古典選 朝日新聞社)の中で、「本来彼は,山水が好きで,渓流歩きや高山の山登りが好きであったが、彼の描いた山水は,いわば彼自身であり、しばしば彼の自尊心を山水に託して表現する。
 単に山水の美しさを書いたのではないことに注意すべきである。」と言っている。
 

この詩の持つしんとした寂寥感は、柳宗元の失意孤独の心情に発するものだが、
しかし同時に、雪の江中に釣りをする翁の姿からは、孤独な境遇のなかにいて、
なおたじろがぬ毅然とした作者の精神を感じ取ることができる。
そういう気持ちで詠じてみたい。