遊岳の詩吟うん蓄
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唐の歴史概観 |
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7世紀初頭の中国は隋が統一国家を実現していたが、 第2代煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に 反乱がおき、大混乱に陥った。 このとき総督であった李淵は617年(義寧元年)に挙 兵、煬帝の留守中の都、長安を陥落、隋の中央を掌握し た。翌618年(隋義寧2年、唐武徳元年)に江南にいた 煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位 (高祖)し、唐を建国した。 (写真左は初代唐皇帝 李淵) 建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵 した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子李世民 が討ち滅ぼしていった。建国に勲功を立てた李世民は、 626年(玄武門の変)で、高祖の長男で皇太子の李建成 を殺し第2代の皇帝(太宗)となる。 太宗は外征においては当時の北方の強国突厥をくだし てモンゴル高原を支配下に置き、北族から天可汗(テン グリ・カガン)、すなわち天帝の号を贈られた。 また内治においては中国においてその後も長く政治の 理想形とみなされた三省六部、宰相の制度が確立され、 その政治は貞観の治として名高い。 その治世について書かれたものが『貞観政要』であり、 日本や朝鮮にまで帝王学の教科書として多く読まれた。 |
唐の基礎を据えた太宗の治世の後、第3代高宗の 時代に隋以来の懸案であった高句麗征伐が成功し、 国勢は最初の絶頂期を迎える。しかし、高宗個人は 政治への意欲が薄く、やがて天后であった武后(武則天)とその一族の武氏による専横が始まった。 夫に代わって実権を握った武則天(写真右)は高 宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した 後に自ら帝位に就き、690年(載初元年)国号を周 と改めた(武周)。 中国史上最初で最後の女帝であった武則天は、酷 吏を使って恐怖政治を行う一方で、人材を養成し優 れた政治を行った。しかし武則天が老境に入って床 にあることが多くなると権威は衰え、705年(神龍 元年)、宰相張柬之に退位を迫られた。 こうして武則天に退位させられた息子の中宗が再 び帝位につき唐を復活、周は1代15年で滅亡した。 |
【盛唐期】 712年(先天元年)李隆基は睿宗から譲位され、即位して玄宗皇帝となった。 ……日本史では、710年元明天皇が長安を習って平城京に都を移した同じ時期に当たる。
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【中・晩唐期】 中唐 8世紀半ば?) ……日本では752年奈良東大寺に大仏が開眼し、天平文化が栄え。又、唐の高僧「鑑真」が日本に来たのが754年である。 9年に亘る安史の乱(755年から763年)により疲弊した唐は、中央アジアのみならず西域までも保持することが難しくなり、国境は次第に縮小して世界帝国たる力を失っていった。 また、この頃になると中央では宦官(=宦官とは去勢を施された官吏)の力が非常に強くなって皇帝に対し強い影響力を行使し、地方では節度使が中央政府から自立して半独立的な地方支配を行っていくようになる。節度使の増加にともない、皇帝が全国に及ぼす支配力は非常に限られたものとなっていった。(……現在の日本の官僚が力をつけて、自民党政権を牛耳っているのと似たところがある様に思える。) これに対し、中興の祖といわれる憲宗は禁軍(皇帝直轄軍)を強化することで中央の命令を聞かない節度使を討伐し、朝威を回復させた。 しかしその後、不老長寿の薬と称された危険な薬を常用するようになり、精神不安定になって宦官を虐殺するようになり、恐れた宦官により逆に殺された。 孫の18代皇帝文宗は、宦官を誅殺しようと「甘露の変」と称される策略を練ったが失敗し、これ以後の皇帝は宦官の意のままに動く傀儡となった。
しかし、黄巣軍の構成員はその多くが貧民の出なので政務ができず、自滅に近い形で長安を去った。 |