遊岳の詩吟うん蓄


唐の歴史概観


詩吟を趣味として唐詩を吟ずるための知識として、
少し唐の歴史について触れてみたいと思う。

【初唐期】
 唐の歴史は300年にわたり、非常に長く、また唐代の間の社会変動も大きい。
 ここでは唐の歴史【初唐、盛唐、中唐、晩唐】について、4期を3回に分けて概観してみたい。
 なお、史実及び写真についてはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、その他の
文献及び年表から引用しまとめたものである点お断りしておきたい。

 まずは、初唐期(武周期を含む7世紀初め)について触れてみたい。

 ……日本史では、607年に小野妹子が遣隋使として隋に渡り、奈良に法隆寺が建立された飛鳥
時代のころ。

   7世紀初頭の中国は隋が統一国家を実現していたが、
第2代煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に
反乱がおき、大混乱に陥った。
 このとき総督であった李淵は617年(義寧元年)に挙
兵、煬帝の留守中の都、長安を陥落、隋の中央を掌握し
た。翌618年(隋義寧2年、唐武徳元年)に江南にいた
煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位
(高祖)し、唐を建国した。
(写真左は初代唐皇帝 李淵)

 
建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵
した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子李世民
が討ち滅ぼしていった。建国に勲功を立てた李世民は、
626年(玄武門の変)で、高祖の長男で皇太子の李建成
を殺し第2代の皇帝(太宗)となる。
太宗は外征においては当時の北方の強国突厥をくだし
てモンゴル高原を支配下に置き、北族から天可汗(テン
グリ・カガン)、すなわち天帝の号を贈られた。

 また内治においては中国においてその後も長く政治の
理想形とみなされた三省六部、宰相の制度が確立され、
その政治は貞観の治として名高い。
その治世について書かれたものが『貞観政要』であり、
日本や朝鮮にまで帝王学の教科書として多く読まれた。
 唐の基礎を据えた太宗の治世の後、第3代高宗の
時代に隋以来の懸案であった高句麗征伐が成功し、
国勢は最初の絶頂期を迎える。しかし、高宗個人は
政治への意欲が薄く、やがて天后であった武后(武則天)とその一族の武氏による専横が始まった。
 夫に代わって実権を握った武則天(写真右)は高
宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した
後に自ら帝位に就き、690年(載初元年)国号を周
と改めた(武周)。
 中国史上最初で最後の女帝であった武則天は、酷
吏を使って恐怖政治を行う一方で、人材を養成し優
れた政治を行った。しかし武則天が老境に入って床
にあることが多くなると権威は衰え、705年(神龍
元年)、宰相張柬之に退位を迫られた。
 こうして武則天に退位させられた息子の中宗が再
び帝位につき唐を復活、周は1代15年で滅亡した。

 しかし今度は、中宗の皇后韋后が第2の武則天になろうと中宗を毒殺した。韋后はその後即位
した殤帝を傀儡とし、いずれ禅譲させようとしていたが、これに反対して中宗の甥李隆基と武則
天の娘太平公主がクーデターを起こした。敗れた韋后は族殺され、武則天により退位させられ皇
位を離れていた李隆基の父・睿宗が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進め
られた。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。

 7世紀後半から8世紀前半に後宮を中心に頻発したこの政乱は、これを主導した2人の皇后の
姓をとって「武韋の禍」と呼ばれている。


【盛唐期】

 712年(先天元年)李隆基は睿宗から譲位され、即位して玄宗皇帝となった。

  ……日本史では、710年元明天皇が長安を習って平城京に都を移した同じ時期に当たる。

   翌年、713年完全に権力を掌握した、玄宗皇帝の治世の前半は開元の治といわれ、唐の絶頂期となった。

 この時期、唐の勢威は中央アジアのオアシス都市群にまで及んだが、751年にトランスオクシアナの支配権をめぐってアッバース朝との間に起こったタラス河畔の戦いには敗れた。

 玄宗は、長い治世の後半には楊貴妃(写真下)を溺愛して政治への意欲を失い、宰相李林甫、ついで貴妃の一族楊国忠の専横を許した。

 楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使の安禄山と対立し、危険を感じた安禄山は755年に反乱を起こした。節度使は玄宗の時代に作られたもので、辺境に駐留する将軍に行政権も与える制度である。北方3州の節度使を兼ねて大軍を握っていた安禄山は、たちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させて大燕皇帝と称した。

 都の長安も占領され、玄宗は蜀に逃亡、その途中で反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は誅殺された。失意の玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位した。


 丁度その頃(759年)日本では最も古い歌集「万葉集」が大伴家持らの手で編纂されている。

 唐は名将郭子儀らの活躍やウイグルの援軍によって、763年に辛うじて乱を鎮圧した。9年に及んだこの反乱 は、安禄山と、その死後、乱を主導した配下の史思明の名をとって安史の乱と呼ばれる。

   安史の乱(755年から763年)によって、唐の国威は大きく傷付いた。
 反乱鎮圧に大きな役割を果たした回鶻(ウイグル)には外交上の優位を許し、交易でも主導権を奪われて多くの財貨が漠北へと運ばれた。
この大幅な貿易赤字は唐の財政を悪化させた。

 また、反乱軍の将軍を味方に引き入れるため節度使に任命していった結果、辺境だけでなく本国内にまで節度使が置かれるようになった。
 彼ら地方の節度使は、乱の後も小王に等しい権力を保持し続けた(「河朔三鎮」)。
 各地に小軍事政権(藩鎮)が割拠する状態は、後の五代十国時代まで続き、戦乱の原因となった。
 (図は、8世紀初頭の唐国)

  以降、唐は次第に傾いていくことになる。

【中・晩唐期】

中唐

 
 8世紀半ば?)
 ……日本では752年奈良東大寺に大仏が開眼し、天平文化が栄え。又、唐の高僧「鑑真」が日本に来たのが754年である。
 9年に亘る安史の乱(755年から763年)により疲弊した唐は、中央アジアのみならず西域までも保持することが難しくなり、国境は次第に縮小して世界帝国たる力を失っていった。

 また、この頃になると中央では宦官(=宦官とは去勢を施された官吏)の力が非常に強くなって皇帝に対し強い影響力を行使し、地方では節度使が中央政府から自立して半独立的な地方支配を行っていくようになる。節度使の増加にともない、皇帝が全国に及ぼす支配力は非常に限られたものとなっていった。(……現在の日本の官僚が力をつけて、自民党政権を牛耳っているのと似たところがある様に思える。)
 これに対し、中興の祖といわれる憲宗は禁軍(皇帝直轄軍)を強化することで中央の命令を聞かない節度使を討伐し、朝威を回復させた。
 しかしその後、不老長寿の薬と称された危険な薬を常用するようになり、精神不安定になって宦官を虐殺するようになり、恐れた宦官により逆に殺された。
 
 孫の18代皇帝文宗は、宦官を誅殺しようと「甘露の変」と称される策略を練ったが失敗し、これ以後の皇帝は宦官の意のままに動く傀儡となった。


晩唐
(9世紀半ば? 10世紀初頭)
 840年に文宗が崩御した後、弟の武宗は廃仏運動を進めた。
 当時、脱税目的で僧籍を取る者が多く、これらの僧を還俗させて税をとることで財政改善を狙った。 この時期、牛僧孺と李徳裕の政争が激しくなり、激しい党争により政治の活力は失われていった。

 これは牛李の党争と呼ばれ、この政乱による国力の低下は地方の圧政につながり、859年の裘甫の乱、868年の?勛の乱に代表される反乱が各地で起きた、又、874年ごろから黄巣の乱が起きる。
 この乱は全国に波及し、黄巣は長安を陥とし、国号を斉として皇帝となった。
 長安(ちょうあん)は中国の古都で、現在の陝西省の省都西安市に相当する。
 漢代に長安と命名され、前漢、後周、隋などの首都であり、唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長していた。
(写真右は、唐代にできた長安の大雁塔)

しかし、黄巣軍の構成員はその多くが貧民の出なので政務ができず、自滅に近い形で長安を去った。
 この時に黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り、唐に味方した。朱温は唐から全忠の名前を貰い、以後朱全忠と名乗る。

 この頃になるとすでに唐朝の支配地域は首都長安の周辺のみとなった。
 経済の先進地である河南地方の節度使となった朱全忠は、唐の朝廷を本拠の開封に移して唐の権威を借りて勢力を拡大した。

 907年(天祐4年)、朱全忠は哀帝より禅譲を受けて後梁を開き、唐は滅亡する。
 しかし、唐の亡んだ時点で朱全忠の勢力は河南を中心に華北の半分を占めるに過ぎず、各地には節度使から自立した群国が立っていた。
 
 後梁はこれらを制圧して中国を再統一する力をもたず、中国は五代十国の分裂時代に入る。