遊岳の詩吟うん蓄

 

和歌  「毛越寺懐古」と 佐佐木信綱


   毛越寺懐古  佐佐木 信綱

 
大門の いしずゑ苔に うずもれて
    七堂伽藍  ただ秋の風
   

 【詩 形】和歌(短歌)
 【語 釈】 毛越寺:嘉祥3年(850年)天台宗山門派の祖、円仁が岩手県平泉町に創建。
       七堂伽藍:金堂、講堂、塔、鐘楼、経蔵、僧坊、食堂などの寺院7つの堂宇。
       

【佐佐木 信綱】
 三重県鈴鹿郡石薬師村(現鈴鹿市石薬師町)にて歌人で国文学者の佐々木弘綱の長男として生まれる。号は竹柏園。
 父の教えを受け5歳にして作歌。1882年(明治15年)上京。
 1890年(明治23年)、父と共編で『日本歌学全書』全12册の刊行を開始。1896年(明治29年)、森鴎外の『めざまし草』に歌を発表し、歌誌『いささ川』を創刊。また、落合直文、与謝野鉄幹らと新詩会をおこし、新体詩集『この花』を刊行。
 歌誌『心の花』を発行する短歌結社「竹柏会[1]」を主宰し、木下利玄、川田順、前川佐美雄、九条武子、柳原白蓮など多くの歌人を育成。国語学者の新村出、翻訳家の片山広子、村岡花子、国文学者の久松潜一も信綱のもとで和歌を学んでいる。『思草』をはじめ数々の歌集を刊行した。
 1934年(昭和9年)7月31日、帝国学士院会員[2]。1937年(昭和12年)には文化勲章を受章、帝国芸術院会員。御歌所寄人として、歌会始撰者でもあった。
その流れで貞明皇后[3]ら皇族に和歌を指導している。

 墓所は東京谷中霊園の五重塔跡近くにある。三男の佐佐木治綱も歌人だったが、父に先立ち1958年(昭和33年)に病没。
 孫の佐佐木幸綱も歌人で活動している(元編集者で、治綱の息子)。
 
【詩の解釈】
 ◆ 1899年(明治32年)秋、仙台、松島、平泉を周遊したときの〝みちのく百首〟
   (「心の花」明治32年10月、11月)の中の一首。
  ◆ 中尊寺をしのぐ壮麗な大伽藍を誇っていた毛越寺も、今や荒廃した遺跡だけを
    とどめているという事実が客観的に捉えられている。
   「埋もれて」で小休止が置かれ、藤原氏3代の興亡の歴史を追い体験するかのように時間が
    往時へとさかのぼる。
   「ただ秋の風」という結句は、藤原良経の「人住まぬ不破の関屋の板廂荒れにしのちは
    ただ秋の風」や松尾芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」の名歌名句によって発想されたと
   考えられる。

この毛越寺の南大門をしめす礎石もいまは苔に埋もれている。
かって藤原氏3代の栄華の誇りであった七堂伽藍の後には、
ただ秋風だけが吹き渡っているだけである。
    
今では、世界遺産となり、市民の憩いの場でもある毛越寺庭園にたたずみ
往時の藤原3代の栄華をしのびながら吟じてみたい