スマホ片手に家康ゆかりの地めぐり

徳川家康についての年代別に振り返る!

1522年 家康が生まれる前の守山小幡城
現在の名古屋市守山区の町の一角に小幡城跡の説明板がある、小幡城は織田家の家臣であった岡田重篤の築城によるものです。
後の、小牧・長久手合戦では徳川家康も一時入城したこともあり、尾張の戦国史に何度か登場するお城です。
1535年(天文四年)家康の祖父である岡崎城主・松平清康は、織田信秀を討つ為に尾張へ攻め入りその時小幡城に入城しました、その後、小幡城は織田信秀の弟・信光の居城となりましたが、1555年(弘治元年)信光も那古野城中で不慮の死、守山城で起きた守山崩れでなくなりました。(詳細は「森山崩れ」を参照)

1526年(大永6年)、連歌師宗長が館で松平信定新知行祝の千句連歌会を催し、「花にけふ風を関守山路哉」と守山を詠んだ発句が宗長手記・下巻に記されており、これが「もりやま」が「守山」と記された初見である。

宝勝寺(名古屋市守山区)は守山城の隣にありその建立には諸説あるが、1637年(寛永14年)に大永寺七世大渓良澤和尚が清康の菩提を弔うために建立。その縁により、大永寺の末寺となっている。


現在も葵の紋のついた厨子に入った清康の位牌が安置されている。清康の墓石は、土居址にあったが、今は疎林の中の池畔に移されている。

1542年 愛知県岡崎市にて誕生
三河国(現在の愛知県東部)岡崎城にて誕生。幼名は竹千代である。父は松平広忠、母は刈谷城主水野信元の妹の於大の方である。

【徳川家康生誕から家康と名乗るまで】

家康が誕生した当時の三河国は、西からは織田信長の父である織田信秀、東は駿河・遠江(現在の伊豆半島を除いた静岡県)守護の今川義元といった、強大な勢力に挟まれていた。

1547年(天文16年)
松平広忠(家康の父)は、岡崎を攻略しようとする織田信秀(織田信長の父)に対抗するため、当時は大きな勢力を有した今川義元と同盟を結びます。そして弱冠6歳の竹千代(家康)は、人質として今川方に差し出されることに。
こうして家康の波瀾万丈の生涯が始まります。
今川家の居館である駿府(静岡市)への護衛は田原城主・戸田康光が担当。岡崎城から徒歩で渥美半島へと出て、老津の浜(豊橋鉄道渥美線老津駅近く)から舟で駿河を目ざすという計画だったわけですが、船はなぜか織田信秀の居城・那古野城(のちの名古屋城)を目ざします。
(竹千代は、義理の祖父の裏切りに合い、敵方の織田信秀に銭百貫で売り飛ばされたのです。)

竹千代は当初、熱田神宮近くの豪商・加藤図書助順盛(かとうずしょのすけのぶもり)の邸宅に幽閉されていました。


その跡地には現在「家康幼児幽居地」(名古屋市熱田区伝馬2-13-3)という看板が立つのみです。

信秀は岡崎城を攻略、この時、竹千代は信秀のもとに送られる。

1549年
一方、広忠は今川氏の援助を得て、小豆坂の戦いで織田勢を退けた。
広忠の跡を継いだ竹千代を織田勢から取り戻すべく、今川勢は安祥城を攻略。

1549年(天文18年11月9日)
天文18年11月9日、織田家に幽閉された松平竹千代と今川家の囚われの身となった織田信広の人質交換交渉が成功。

東海道沿いの笠寺観音(笠覆寺/名古屋市南区)で人質交換が行なわれ、竹千代は駿府、今川義元の元に送られることになります。

1549年 竹千代は人質として駿府へ

今川氏全盛期9代義元の時代天文18年に、家康(幼名 松平竹千代)は人質として19歳までの12年間、駿府で生活しています。

1555年
竹千代は元服し、今川義元から一字を貰い受け、松平元信と名乗る。
元信による最初の文書は、岡崎市にある高隆寺に寺領を保証したものである。

1556年
今川義元の姪築山殿と婚姻、それにより今川氏の親類衆となる。

1558年
名前を元康に改める。これは、祖父清康の一字を用いたものと言われている。
同年、初陣を果たす。
元康は今川氏の保護を受けながら、駿河から岡崎領国経営にあたっていた。

1560年6月12日(永禄3年5月19日) 桶狭間の戦い
今川義元は自ら大軍を率いて三河国に侵攻する。元康は今川氏の将として、大高城に兵粮を入れた後、織田方の砦を攻め落とす活躍を見せる。
しかし、義元は桶狭間山で休息中、織田信秀の跡を継いだ信長に強襲を受け、今川本隊は壊滅、義元も散った。


それを受け、元康は松平氏の本城である岡崎城に入り、今川氏の保護を受けることができない状態の中、再出発することになる。

1561年
水野信元の仲介で信長と和睦、西からの脅威を受けなくなる。

1562年 信長と清洲同盟
信長(29歳)と松平元康(20歳)の再会この年、戦国時代を終結させる二人が再会します
1月15日、松平元康(後の徳川家康)は自ら清洲に赴きます。
前年の両家の和睦により、織田家から水野信元、松平家からは石川数正が代表となり水面下で同盟交渉を行っていました。
最終的な同盟締結の儀式を済ませるのみという段階ではありましたが、互いの家臣の中には依然敵視する者もあり、元康は織田方の謀略で命を狙われる可能性もある危険な状況でした。

1563年
今川義元から送られた元の字を排し、実名を家康と改める。

【三河一向一揆平定から三河国統一まで】

西三河には浄土真宗(一向宗)の門徒が多く、本願寺の一族寺院である土呂本宗寺(岡崎市)を頂点とし、三か寺と呼ばれた、佐々木上宮寺・針崎勝鬘寺(以上岡崎市)・野寺本證寺(安城市)を中心として本願寺教団が隆盛していた。

1563年 三河一向一揆

『三河物語』や『松平記』という史料によると、家康の家臣が上宮寺から兵糧を強制徴収しようとして紛争が起き、西三河の本願寺教団存続のために蜂起した。 これを三河一向一揆という。

一揆勢は家康の政策に反対する勢力と結び付いて家康と戦闘を続けたが、水野信元との仲介で和睦した。
家康は先の寺院に宗旨替えを求めるも、本宗寺などは応じず、寺院を破却、僧侶を国外追放とした。

また、後に家康の重臣となる本多正信も一揆方に付いたため、この時追放されている。
本多忠勝は家康に付いて戦った。

この戦いを経て、三河国では浄土真宗本願寺派の活動は禁止され、家康の立場は確固たるものになった。

1566年
三河国をほぼ平定、その立場を公認化するため、朝廷に徳川への改姓を願い出て認められ、ここに徳川家康が誕生した。

【浜松城の家康と岡崎城の信康】

1570年
家康は浜松城を築いて移ったため、岡崎城には嫡男松平信康が入り、城主となった。 記録上、信康が「徳川信康」と名乗ったことはない。
信康は家康から付けられた平岩親吉らの家臣団とともに三河国の統治を進めていた。

1575年
岡崎において大事件が勃発。
信康の家臣であり、岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎らの一派が武田信玄の後継者勝頼と内通し、武田軍を岡崎城に引き入れようとした「大岡弥四郎事件」である。
家康の正妻築山殿も関与していたと伝わる。

15756月29日(天正3年5月21日)
三河国長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。
決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)および有海原(あるみ原)(『藩翰譜』・『信長公記』)だったため、長篠・設楽ヶ原の戦い(ながしの・したらがはらのたたかい)と記す場合がある。

長篠・設楽原地図     岡井会員提供 2023.6.10撮影
長篠城跡説明     岡井会員提供
長篠城本丸跡  岡井会員提供
長篠城址石碑  岡井会員提供
鳥居強右衛門  岡井会員提供
鳥居強右衛門磔場   岡井会員提供

信長軍団の到着—現地に再現された馬防柵

信長軍30,000と家康軍8,000は、5月18日に長篠城手前の設楽原に着陣。設楽原は原といっても、小川や沢に沿って丘陵地が南北にいくつも連なる場所であった。ここからでは相手陣の深遠まで見渡せなかったが、信長はこの点を利用し、30,000の軍勢を敵から見えないよう、途切れ途切れに布陣させ、小川・連吾川を堀に見立てて防御陣の構築に努める。これは、川を挟む台地の両方の斜面を削って人工的な急斜面とし、さらに三重の土塁に馬防柵を設けるという当時の日本としては異例の野戦築城だった。
海外の過去の銃を用いた野戦築城の例と、宣教師の往来を理由として信長がイタリア戦役を知っていた可能性に言及されることがある。つまり信長側は、無防備に近い鉄砲隊を主力として柵・土塁で守り、武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術を採った。

設楽原の戦い説明   岡井会員提供
設楽原の戦い絵図    岡井会員提供

一方、信長到着の報を受けた武田陣営では直ちに軍議が開かれた。信玄時代からの重鎮たち、特に後代に武田四名臣といわれる山県昌景・馬場信春・内藤昌秀らは信長自らの出陣を知って撤退を進言したといわれているが、勝頼は決戦を行うことを決定する。そして長篠城の牽制に3,000ほどを置き、残り12,000を設楽原に向けた。これに対し、信玄以来の古くからの重臣たちは敗戦を予感し、死を覚悟して一同集まり酒(水盃)を飲んで決別したという。
「信長公記」にある武田軍の動きは、「長篠城へ武将7人を向かわせ、勝頼は1万5千ほどの軍勢を率いて滝沢川を渡り、織田軍と二十町(約2,018m)ほどの距離に、兵を13箇所ほどに分けて西向きに布陣した」というものである。

武田のこの動きを見た信長は、「今回、武田軍が近くに布陣しているのは天の与えた機会である。ことごとく討ち果たすべきだ」と思い、味方からは1人の損害も出さないようにしようと作戦を考えた(『信長公記8巻』)。

相手の油断を誘ったという面もあるが、鉄砲を主力とする守戦を念頭に置いていたため、武田を誘い込む狙いであった。

設楽原馬防柵説明   岡井会員提供
馬防柵1   岡井会員提供
馬防柵2   岡井会員提供
馬防柵3   岡井会員提供

岡崎城で起こった「大岡弥四郎らの一派が武田信玄の後継者勝頼と内通した」大事件自体は事前に発覚し、未然に防がれた。
岡崎城に向かうはずだった武田軍は矛先を長篠城に向け、それを救援しに向かった織田・徳川連合軍と激突したのが長篠合戦である。

背景には、家康を中心とした、信長との同盟を継続し、武田氏と戦いを継続する派閥と、それを見直して武田氏と結ぼうとする、岡崎城の信康の周辺との間で政治的対立があったとされている。

1579年
その対立から家康は信康を岡崎城から退去させる。これを信康事件という。
その後岡崎城には家康の家臣である、石川数正が岡崎城代として入っている。

【本能寺の変から関ヶ原の戦いまで】

1582年6月 本能寺の変が勃発する。
当時、家康は信長の勧めで堺を見学するところであったが、変を知り、明智光秀の追っ手を避けつつ、いわゆる「神君伊賀越え」を敢行した。
この時点で家康に同行していた面々は、酒井忠次、石川数正、本多正信、本多忠勝、榊原康政、井伊万千代(直政)、天野康景、大久保忠佐・忠隣、高力清長、服部半蔵、渡辺半蔵、鳥居忠政、長田伝八郎(永井直勝)等という錚々たるメンバーであった(異説あり)。これに、信長から案内役として付けられた長谷川秀一(竹丸)、家康に従ったばかりの駿河江尻城主穴山梅雪、京都から急ぎ変報を届けてきた茶屋四郎次郎清延がいた。
伊賀丸柱の山間地を抜け、関町木崎の関氏ゆかりの瑞光寺に到着、ここでしばらく滞在した後、岡崎城まで逃げ延びている。

その後家康は北条氏・上杉氏と武田氏旧領を巡る動乱「天正壬午の乱」を戦い抜き、結果三河・信濃・遠江・駿河、そして甲斐国を領有するまでになる。

1583年(天正11年) 賤ケ岳の戦い
賤ヶ岳の戦いは、家康と同盟を結ぶ羽柴秀吉と柴田勝家が近江国伊香郡木本町(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で起きた戦いである。秀吉方で功名をあげた兵のうち7人は後世に賤ヶ岳の七本槍と呼ばれる。

1584年(天正12年)3月 小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦いは、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣秀吉賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営(連合軍)の間で行われた戦い。

史跡小牧山説明 岡井会員提供
古戦場公園 岡井会員提供

勝敗決せず,長期戦となったため講和を結んで終結した。

1584年(天正12年)6月 蟹江城合戦

蟹江城合戦は、天正12年(1584年)6月16日に起こった尾張国南西部における羽柴秀吉(豊臣秀吉)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。主に蟹江城における篭城戦であった。蟹江合戦とも。

天正12年6月16日午前、安宅船を擁する九鬼水軍と滝川一益の兵3千が蟹江浦に現れる。前田長定は、滝川一益の調略を受け入れ、佐久間信辰を本丸から退去させた。同時に長定の弟・前田長俊(利定)の守る下市場城及び、長男・前田長種の守る前田城も秀吉陣営となったが、大野城の山口重政は母親を人質に取られているにも関わらず調略に応じなかった為、16日の夕刻、滝川、九鬼、前田勢は城攻めを行い、陥落寸前まで追い込んだという。

蟹江城落城の報せを聞いた長島城の織田信雄は兵2千を率いて16日の夜日のうちに大野城に急行、清州城の徳川家康も手勢を率いて17日早朝には戸田村に本陣構えた。信雄は大野城に入城し、大野城攻めに失敗した滝川勢は蟹江城に、九鬼勢は下市場城にそれぞれ逃れ篭城した。

1584年(天正十二年)
小牧・長久手の合戦で、徳川家康は池田恒興・森長可の羽柴方別働隊を長久手で破った後、直ぐに兵をまとめて小幡山城(守山市)に入城しています。

救援に駆けつけた秀吉は、龍泉寺城(守山区)に入城。

家康との合戦に備え、龍泉寺城の掘・土塁を築き、防備を厚くしていたら、家康は小牧山へ素早く移動。秀吉も楽田の本陣へ戻りました。

守山城は、尾張国守山(現在の名古屋市守山区市場)にあった。

1585年(天正13年) 駿府城築城を開始

駿河国を領国の一つとした家康は、天正13年(1585)から居城として駿府城の築城を始め、
天正17年(1589)に完成させます。現在の二ノ丸以内の部分です。


しかし、家康は翌年関白豊臣秀吉の命によって関東に移封(国替え)され、
豊臣系の家臣中村一氏(なかむらかずうじ)が城主となります。
豊臣秀吉亡き後、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、
慶長8年(1603)征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開きました。

1590年
家康が豊臣秀吉の命で関東地方に移動することになり、秀吉の家臣である、田中吉政が岡崎城主となる。

1600年 関ヶ原の戦い

徳川家康率いる東軍勝利で幕を閉じた関ヶ原の戦い。その舞台、決戦の地となったのは、岐阜県関ヶ原町。
古戦場めぐりの前に岐阜関ケ原古戦場記念館で予備知識を・・・

岐阜関ケ原古戦場記念館
   〒503-1501 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原894-55 
   TEL: 0584-47-6070
開館時間/9:30~17:00(入館は16:30まで)
休館日/毎週月曜日(祝日の場合は翌平日)、12/29~1/3


今も徳川家康や石田三成の陣跡など数々の史跡が残っています。

意外と狭い、でも歩くと広い、関ヶ原の戦いの舞台
東西両軍の陣地跡や記念碑が残され当時に思いを馳せることができる関ヶ原古戦場。その範囲は、ほんの数km四方ではあるが、実際にめぐってみると思いのほか広大で重要な拠点は山であったりするため、1日ですべてを回るのは難しい。

関が原古戦場記念館では勢力図・布陣図などの解説図もあります。当時の武具等関が原合戦の概要を目の当たりにし、実際に古戦場を歩くことで、史跡と一体となった古戦場めぐりになれば幸いです。

まずは徳川家康が陣を敷いた桃配山(ももくばりやま)と陣場野(じんばの)公園から訪ねてみた。
決戦当日、東軍の総大将・徳川家康が最初に布陣したのは、主戦場から東に離れた桃配山の中腹だった。高所に陣取る西軍に対し、東軍は平地から攻め登らねばならなかったため、家康も高所から展開を見守ったのだろう。

御霊神社

関ケ原戦死者の諸霊を祀るため1980年に建立された神社です。祠クラスの小さな神社で徳川家康最後の陣跡がある陣場野公園の片隅にひっそり建っています。
この場所は、合戦翌日に家康が敵将の首実検を行った場所でもあります。その場所に戦死者を祀る神社が建立されたのですね。 


関ヶ原の戦い後は、家康家臣の本多康重が岡崎城主となった。

岡崎場は、江戸時代を通じ、家康誕生の城として重要視され、譜代大名が歴代城主となっていった。

【岡崎市内にある家康所縁の寺院】

ここで、家康に所縁のある岡崎市内の神社仏閣をいくつかご紹介します。

大樹寺

まずは鴨田町にある大樹寺である。
1475年に開かれ、松平家・徳川将軍家の菩提寺とされている。
松平8代の墓、歴代将軍の位牌、家康像が祀られている。
大樹寺と岡崎城を結ぶ約3キロの直線は「ビスタライン」と呼ばれ、それを妨げるような建築物を建てることはできない。
約370年間守られてきた眺望である。

   
松應寺

次に松本町にある松應寺である。
1560年、家康が父広忠のために創建。
1612年には大御所と呼ばれるようになった家康が大坂に向かう途中に参拝、1623年には2代将軍秀忠、その後継者でのちの3代将軍家光も上洛の途中で参拝している。
1633年には家光が大造営を行なっている。

法蔵寺

岡崎市本宿町寺山1 にある 浄土宗西山深草派の寺院で、本尊 は 阿弥陀如来 。
かつては、二村山出生寺と称し法相宗 の古刹であった。
家康が幼少のころ、手習いや漢籍などの学問に励んだと伝えられる寺で、硯箱・硯石・手本・机・墨付小袖・破魔弓など家康幼少期の品のほか、境内には六角堂開運勝利観音・東照権現宮・家康ゆかりの草紙かけ松・おてならい井戸・お手植えの桜などの文化財も多く現存しています。

伊賀八幡宮

伊賀町東郷中にある伊賀八幡宮は、家康が大きな合戦の前には必ず参詣したと伝わり、現在でも家康行列の出発点である。
 岡崎随一のパワースポットでもある伊賀八幡宮
江戸時代にわたっても徳川将軍家の厚い崇敬をうけました。

  

他にも、家康が幼少期に手習いや学問に励み、桶狭間の戦い後に家康から優遇された本宿町にある法蔵寺、家康が祖父の清康の菩提を弔うために創建された門前町の隨念寺などがある。

八柱神社 

岡崎市欠町石ヶ崎に八柱神社があり、その神社には徳川家康の正妻であった築山御前の塚があります。

築山御前首塚説明  岡井会員提供
八柱神社鳥居  岡井会員提供
払戸(徳川の家紋がついています)  岡井会員提供

家康の長男信康は、信長の娘徳姫と結婚し、家康が浜松城へ移った年(1570年)岡崎城主になりました。信長は、信康の母 築山御前が今川方の出身であり、武田方と内通しているとの理由で、築山御前と信康の処断を家康に迫りました。

家康も助命のため努力しましたが果たせずに信康は自刃、築山御前は殺害されてしまいました。

隨念寺 ~祖父である松平清康の菩提所~

東岡崎駅の北(岡崎市門前町)モダン通りからも見渡すことができる隨念寺は、徳川家康公が、祖父である三河の覇者、松平清康の菩提所として創建。

隨念寺境内  岡井会員提供
隨念寺山門  岡井会員提供
隨念寺説明  岡井会員提供
隨念寺本堂  岡井会員提供


幕府の庇護も厚く、開山から江戸時代まで栄えた寺です。

【新城市にある家康所縁の醫王寺】

かつてこの地には、利修仙人が鳳来寺山の杉を以って彫像したという薬師如来と、行基菩薩が彫刻したとされる阿弥陀如来の二木像が祀られた堂宇があり、真言宗の寺として、醫王寺は開かれたと伝わる。

永正11年(1515年)

 開山 克補契嶷(こくほかいぎょく)大和尚、二世琴室契音(きんしつかいおん)大和尚により、さびれた堂宇を改築し曹洞宗の寺として新たな歴史を刻む事となり、現在に至る。

天正3年(1575年)

この年に勃発した長篠の合戦の折には、甲斐の武将 武田勝頼公が醫王寺にて本陣を張る。

現在の醫王寺

明治39年(1906年)失火により伽藍が全焼、大正13年(1924年)に本堂が再建され現在に至る。

醫王寺   岡井会員提供
醫王寺武田勝頼本陣碑  岡井会員提供
家康物見塚   岡井会員提供
家康本陣跡   岡井会員提供
家康本陣地   岡井会員提供

のちの天正12年(1584)徳川家康は兵火による焼失をいたく惜しまれ、徳川家康自ら浄財を出してその再興を援助されましたが、ついに旧観に復帰させることが出来ませんでした。

【名古屋市内にある家康所縁の寺院】

名古屋東照宮

慶喜遺訓  岡井会員提供

名古屋市中区栄・伏見にある
名古屋東照宮は元和5年(1619)藩祖徳川義直が名古屋の開祖徳川家康公を御祭神として名古屋城内に創建し、明治8年(1875)に現在地に移転しましたが、昭和20年の戦災で焼失しました。
現在の本殿は、かつて万松寺にあった義直の正室高原院の御霊屋(おたまや)が大正3年に建中寺に移されたものを昭和29年に移築したもので現在は愛知県重要文化財指定されています。
戦前は東照宮祭として山車行列が行われ名古屋祭りと称されましたが、戦災により焼失し名古屋祭りの名は現在の郷土英傑行列に引き継がれました。

【新時代と家康】

令和元年11月2日
乙川リバーフロント地区整備事業の一環として、徳川家康像が完成。
名古屋鉄道東岡崎駅前に作られ、岡崎市の新たなシンボルとなっている。

令和5年6月15日投稿

「どうする家康」ブームで売れている本山茶「瀬名姫」

静岡市葵区瀬名の親戚からの情報です。
大河ドラマの影響で家康の正室瀬名姫=築山御前の静岡本山茶瀬名姫がブームで売れているそうです。ご参考までに。

静岡本山茶  t6to_19shi.o@docomo.ne.jpさん提供
瀬名姫   t6to_19shi.o@docomo.ne.jpさん提供